大変、お久しぶりでございます。
前回の更新が2017年と知り、驚愕しました。
まったく更新してこなかったにもかかわらず、
こちらのサイト、なんやかんやで、新規で200人くらいの方が
毎月おとずれてくださっていたみたいで、
本当に感謝しています。なんと、お礼を言っていいか・・・。
ありがとうございます。
不義理を働いていた4年の間に、私が何をしていたかというと
日経BPのwebサイトの編集部にがっつりかかわり、
web編集者として働いたり、
今年からは、コルクラボマンガ専科の4期生に編集者枠で入らせていただき、
なんと漫画を描くこともしていました。
え!マンガ? という感じですが、
実は、私、ずっと、幼い頃から漫画家になりたくて、
20代になっても漫画を描いていたのです。
箸にも棒にもかからず諦めていたのですが、
昨年、新型コロナによるパンデミックで外出自粛となり、
「いつ死ぬかわからないんだよなあ。私にとって、何が心残りかな?」と
考えた時に、あれほどなりたかった漫画家になれていない、ということが
本当にくやまれたんですね。
自粛中に読んだ、鬼滅の刃にもめちゃくちゃ感動しまして
「ああ、今からでも漫画にかかわって生きたい!!」と強く思ったのです。
実際、今は、日経クロスウーマンDUAL(旧日経DUAL)の中でも
2つの漫画を担当させてもらっていまして、
「夫にだけやさしくできない」
https://dual.nikkei.com/atcl/column/19/082200029/022400015/
「うちのママ、超テキトー」
https://dual.nikkei.com/atcl/column/19/030100115/033000001/?i_cid=nbpdual_sied_p_comic
「夫にだけやさしくできない」は、途中から。
「うちのママ、超テキトー」は最初から、
原作者としてもかかわらせてもらっています。
美術を学んできたわりに、自分の絵にコンプレックスのある私ですが、
作画を担当してくださる作家さんたちが、
私の拙いストーリーをめちゃくちゃ生き生きと描いてくださって、
おかげさまで、多くの読者に読んでもらっています。
コルクラボマンガ専科に通おう!と思ったのも、
担当マンガを、媒体を超えて多くの読者に読んでもらえる漫画にしていきたい!!
と思ったためでした。
今後は、記事以外にも、漫画などの発信も
ぼちぼちしていけたらなあ、と思っていますので
改めてよろしくお願いします。

今年も残すところ1ヵ月半。
すさまじいスピードで日常が加速していく現実に、すでに恐怖すら感じ得ないのですが
みなさんはどうですか?
私の、2017年のライターとしての目標は、
医療系だけでなく、子育てや、自分なりに社会的意義が感じられる仕事を
どんどん増やしていくこと、でした。
これは2度の出産を経て、40歳という大きなボーダーを目前に控え、
限られた自分の(加速する)時間を、今後、どのようにつかっていくかということに、すごく意識が向くようになってきたからなんですよね。
そんな今年、もっとも刺激的だった仕事が、
「soar(ソアー)」という社会的マイノリティの可能性がひろがる瞬間を伝えるメディアでお仕事をさせてもらったことでした。
今日まで2本の記事が公開されているので、お時間があればご覧いただけるとうれしいです。
1つは、骨肉腫によって右腕を肩から離断された女性を取材した
こちらの記事。
http://soar-world.com/2017/09/19/natsuko-kurasawa/
もう一つは、利用者さんの個性を仕事にする福祉事業所を取材した
こちらの記事です。
http://soar-world.com/2017/11/01/nuca/
どちらも1万字超えですが
このサイトの特徴で、画像とのバランスがよく、読みやすい文体となっているので
さらりと読み進めていただけるかと思います。
だけどこのサイト、実は、ふわりとしたデザインの印象とは裏腹に
これまでにないほど、その取材がハードなんです。
たとえば、腕を失くされ、当時を振り返り涙を流している方に向かって
「腕を失くされたときの気持ちはどうでしたか?」
「ご自身が障害者となり、どう感じられましたか?」
という、とてもシビアな質問をしなければならない。
正直、初めての取材では私にはそれができず、
不甲斐ないのですがフォローしてもらう場面もありました。プロとして、そんなのどうよ!って落ち込んだりもしました。
これ以外にも学んでいることは本当にさまざまあるのですが、
最大の学びは、やはりこれかな、と。
それは、「自分の書いている言葉の位置づけが変わった」ということ。
たとえば、医療記事によく出てくる「患者のQOL」という言葉。
これまでは、そこに誰かの顔が浮かんでくることはなかったように思います。
言葉はあくまで額面通りの意味でしかなく、その言葉の深さや、重みを理解することなく、安易に言われたまま文字を綴っていたように思うんです。
つまり、そこには実感が伴っていなかった。
だけどsoarでの取材を通して、
この、たった6文字に込められている、社会に生きる患者さんの生活が、
ほんの少しだけ垣間見れたような気がしています。ほんとうにほんとうにほんの少しではありますが。
こんなにも多くの人たちの悩みや苦しみがそこには込められていて、
そういう人たちを必死で支えようと日夜努力している人たちがいる、という現実。
そうした事実を知って書く6文字と、知らずに書く6文字って
文字だけ見ていたらなんの違いもないですが、
もしかしたらその違いは、読者にはちゃんと伝わっているんじゃないのかな、って思うんですよね。
文字って、字面以上の情報を発する媒体だから。
だからこそ、社会に発する自分の書いた言葉が
どのように社会の中で位置づけられているのかを常に意識しなければならない。
でないと、やっぱりその言葉は宙にぽっかりと浮いて誰の心にも届かないから。
若いうちならそれでもフレッシュさが漂って好意的に見てくれる人もいるのかもしれないけど、40歳にもなると、そうはいかない。
40歳になると、発する言葉には「軸」のようなものが必要とされるような気がしています。
それには、もっともっとたくさんの知識と経験を身体をつかって得ていく必要があって、そう考えると、気が遠くなる作業量にもう頭がくらくらしてしまう。
だけど、私は他人の言葉を扱わせてもらっている立場だから。
むしろ他人の言葉だからこそ、私がその言葉の意味合いを変えてしまうようなことがあっては絶対にいけないのだと思います。
それが、ライターという仕事。
どんな仕事も、知れば知るほど奥が深いのだなあ。
言葉を味方につけられるか、敵に回すかは自分次第なのだなあ。
襟を正す日々。襟を正す年末です。
最近、文章が下手になっていっている気がする。
その理由はわかっている。それは、絶対的に「書いている数」が少ないせい。
良質な文章を書くには、アスリートばりの「筋肉」が必要なんだと思う。
しかもそれはやみくもに鍛えればいいわけではなく、「ここの弱点を補うにはここの筋肉を強化して」「このへんを伸ばすには、こういうタイプの文章を多く書いて」というような鍛え方。
だから、単に記事を量産すればいいということでは決してないんだけれど、
ある程度の基礎体力みたいなものは、必要不可欠。
最近、また大きな書籍の企画が頓挫した。しかも、めったにお目にかかれないであろう自叙伝。
インプットして、企画書かいて、インタビューしてっていう「書く」以外の作業をしこたまやった矢先でのことだったから、指先が不完全燃焼で、完全にインプットをもてあましている。
あああああ、メールの文章がぶさいく。
あああああ、言葉を用いる適切な場所がつかめない。
ということで、書き写しをしこたまやろう。
アウトプットをしこたまやろう、ということでの久しぶりのブログ再開。
ぼこっと空いてしまったスケジュール。
これを糧に、がんばろう。
好きな人に騙されていたことよりも、騙されていたと気づくことの方が悲しい。
夫の浮気が発覚してよくきく、月並みのセリフ。
だけど、これまではどうにも意味がわかんなかったんだよなあ。
でもね、この本を読んで、これ、あらためて真実だと気づく。
本書で、ある女性が情報スパイに騙されたわけだけれども、
女心としては、「騙すのなら、せめて騙されていたと気づかないで終わらせてほしい」のだよ。
女心が一番悲しむのはね、「金のためや社会的メリットのために騙されていた」と、気づいたとき。そこには、自分というエッセンスがなにもないから。
どんなにひどい別れ方でも、恋愛で終焉するのならどこか救われる。
だけど、恋を金や名誉とトレードするのだけは、だめだ。
5日間。人とずっと一緒にいる毎日を過ごしていたので
活字ばなれを余儀なくされた。
ら、
むしゃぶるいしそうなほど、活字に触れたくて触れたくて、触れたくて。
生の言葉で人と対峙しているのに、
もう、それだけではまったくもって不十分で。
活字中毒。
乙一の小説、思い出しちゃうよね。
あまりに強烈で、衝撃的すぎるものに出会ってしまうと、
思考するためのことばが、バラバラになって、一時的に思考がストップしてしまう。
ことばとは、思考するための最大の武器であり味方なんだと、そうなってはじめて思う。
語彙を増やすことは、思考の幅を増やすこと。
あなどってはいけない、ことばを。
愛されていたい、ことばに。
今のわたしは、まるで出涸らし。
「上阪徹のブックライター塾」の一期生で、ライターであり、すでに何冊もの自著を出されている日本初のヘアライター、佐藤友美さん(さとゆみさん)の新刊です。
2016年には『女の運命は髪で変わる』(サンマーク出版)を出版し、以来、テレビをはじめとするさまざまなメディアに露出されているさとゆみさんですが、その原点は、「カリスマ美容師ブーム」で、雑誌のヘア特集を担当したことにあるのだとか。
本書は、そんな、ある一人のカリスマ美容師さんのお話。49歳でこの世を去った伝説の美容師 鈴木三枝子さんの「生きざま」を、1年半をかけ、およそ190人に取材して完成させたという、渾身の一冊だそうです。
泉岳寺にある鈴木三枝子さんのお墓には、8年を経てもなお、ひっきりなしに人が訪れており、さとゆみさん自身も、会話という会話をしたのは1度きりだというのに、今でも「こういうとき、あの人だったらどうするかな」と考えるという。
なぜ、彼女は亡くなってもなお、多くの人に強い影響を与え続けるのか。
鈴木三枝子さんとは一体、どんな人だったのか?
いやーもう、「はじめに」から、熱量の高い言葉がズシズシと心に響いてきて、ページをめくるこっちの指が火傷するんじゃないかっていうくらいに、とにかく熱い! その熱気に煽られるようにこちらのボルテージも上がり、一気に読んでしまいました。
口が悪い。ときには手もでる。人とは「向き合う」、どころか「取っ組み合う」。
とてもスマートとはいえない鈴木さんの「生きざま」だけど、その泥臭さのコアな部分にこそ、単なる懐古主義的な職人魂を超えた、どんな人にも共通する本質的なアンサーがあったように思います。
なんというか、アッパレ。アッパレな人生。
当たり前だけど、美容師さんって、「職人さんなのだなぁ」とあらためて実感させられました。世襲制ってわけじゃないし、粋な和服を着ているわけでもないけれど、職人さんかどうかって、もしかしたら仕事への向き合い方そのものによるのかもしれないなあ。
読み終えて、パタンと本を閉じた表紙に、「ああ、このタイトル以外はないなあ」「ああ、この表紙しかありえないなあ」と思えたら良書、という自分なりのセオリーがあるのだけれど、まさに、そのまんま。読んで損のないおすすめの良書です。
ファクトリーシン(http://www.factory-shin.co.jp/gift/capcake.html)の、めちゃくちゃかわいいカップケーキをいただいたので、
娘(4歳児)と、マリーアントワネットごっこをしてしばし遊んだよ。
娘「ばあや、パンをちょうだい」
私「パンなんて、とても高くて買えなかったです」
娘「まあ! パンがないならケーキを食べればいいじゃない!」
私「そうしましょう!」
二人「なんておいしいのかしら!」
と、まあ、4歳児がこんなことをいうはずもなく私が仕込んだわけですが
女子って楽しい!
お母さん、カップケーキのおかげで、娘でよかったと本当におもえたよ!ありがとう!
さいきん、「この文章って、どうしてこんなに引き込まれるんだろう?」と思ったら、できるだけ書き写すようにしている。
書き写すといってもパソコンでなんだけど、これが、すっごく意味のある作業で。
というのも、書き写すことによって、読み手と書き手の「距離感」みたいなものが掴めるようになってくるんですよね。
どういうことかというと、すぐれた文章って、ぐいーっと読者を引き込んでしまうパワーがはんぱないから、はじめは「書き手」の立場に立って読み進めていたつもりが、いつのまにか「読者側」にひっくり返ってしまうんです。構成とか、文体とか、細かな技術とか、そういったものを考えながら、じっくりと客観的に読み進めることができなくなってしまうんですよ。
だけど、「書き写す」というワンクッションを挟むことで、単なる読者とはちょっとちがった視点から、同じ文章を読むことができるようになる。しかも、著者の「癖」のようなものを自ら再現していくわけだから、自分の「癖」とのちがいもはっきりと自覚できるわけで。
そして、その書きあがった文章を、自分がいつも書いているワード画面に落とし込んでから再読すると、より「ホーム」な環境でその文章と対峙することができる。これがけっこう重要だとおもうんだけど、こうなって初めて、その文章に「書き手」として接触することができるようになるんです。
雲の上にあった書き手の文章が、私のパソコンに降臨してきた感覚は、恍惚。
そんなこんなを一通りやりながらおもったんだけど、
私がすぐれていると感じる文章って、読者に新たな視座を提供してくれるものばかり。結論がなんというか筋肉質で、ちっともふにゃふにゃしていないんですよね。
そしてそれは、残念ながら書き手のもつ視点がすばらしいのであって、文章云々ではない。
書く技術だけでなく、世界を自分の視点で切り取りその本質を掴むことって、実はライターとしては欠かせない筋肉。先は長いが、やりがいはある。それにきっとそれは、人としての奥行きにもつながるはず。
愚直にやり続けていけば、その先に今は見えない何かがあるはず。それだけを信じて、走り続けていこう。
再読しなければ、本質的なことはわからない本、だと思う。
だけど、再読する気にはとてなれない本、だとも思う。
最近ではめずらしい私小説。芥川賞を受賞してから、著者の羽田圭介さんの人生が急に華やぎだしていく、そのプロセスが、女・金・仕事を通して生々しく描写されています。
まるで「アルジャーノンに花束を」を思わせる栄枯盛衰(ちょっと意味ちがうかもだけど)と、どこからがノンフィクションなのか? という吸引力で、読者を前のめりにさせ、最後までページをめくる手を止めさせない技術は、ものすごいものがありました。
医療もの、刑事ものの小説は、一般人がうかがい知ることができない世界が舞台だからこそ、読者の好奇心を刺激するのだけど、今回の舞台となった「芸能界」も、まさにそのど真ん中。
しかも、タレントではなく「文化人」として露出している人の私生活が垣間見えるような作品は、とても希少。題材の選びかた、すごいビビッとですよね。ご本人にしか書けない物語だと思います。
だけど、文体に馴染むまでにはずいぶん時間がかかったな、ということと
そもそも、著者が自分の人生の一部を切り売りしたということ以上の価値を、本文から見つけることが、少なくとも私にはできなかった。
男っぽいロマン、だからかなあ。
金を手にして、選び放題にきれいな女性たちと性交を重ねていく。ベンツに乗る。ワーカホリックに働く。男女の性別というよりは、醸しているバブル感に萎えたのかもしれない。
どんどん著者が傲慢になっていくのに周囲の成功者たちは謙虚なまま、という設定なら、著者がそうなってしまうきっかけがもっと明確であるべきだったし、それが「芥川賞とったから」ではあまりにお粗末。それに、傲慢に変化していった代償として失ったものがあまりにも少なすぎて、読後に物足りなさが残ります。
人生において切り取る場所は、華やかな今ではなくその先のもっと暗澹たる部分なのでは? と思ってしまったのは、私が女性だから? 意地悪だから?
女遊びの激しい著者に対して、ちょっと復讐心みたいなものがあってのことなんでしょうか。
インパクトほどの中身ではなかったなあ。
うーん。期待していただけに、ちょっと残念な気がしました。