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坂本フジヱさん、という御歳93才の助産師さんのインタビューが、
2015年1月23日の、日経ビジネスオンラインに掲載されていました。

タイトルは、「男と女が同じなら、そらセックスもせん」。

ちょっと過激ですが、
実際の内容は、男女の性についてではなく、経験ゆたかなプロの助産師として「人が生まれること」、「人を産むこと」について、フジヱさんがこれまで取り上げてきたお産で感じていることが語られていました。

 

(本文引用)
姿形が違うように、本当は赤ちゃんの生まれ方だってみんな違うんです。でも今は厚生労働省のマニュアルというのがあって、「こういうときにはこうしなさい」となっている。人生のスタートが、皆同じようになってきてるんですね。

 

(自然分娩の減った現代は)「ああ、かわいい」と、本当に子供を愛おしく感じることが少なくなったんかなと思うんです。その気持ちが義務的になったと言ったらちょっと語弊があるかも分かりませんけど、人工的なものに人間がなじんできた。

 

感覚が敏感な0歳児の間に、とにかく徹底して愛情を与えて与えて与え切る。それで育児の50%は終わりです。お母さんと子供との間に、強力な信頼関係ができる。そしたら自己肯定感が磨かれて、年上の人らと信頼関係を築いていけるようになる。

 

子供というのは神の意思でなかったら、なかなか授かれんです。それを「やっぱりもうちょっと楽しんでから結婚しようか」という人が増えたでしょう。子供も「つくる」って言うようになりましたね。
 

私は、かつて熱心にマクロビをしていた時期があり、上の娘も、いわゆる「自然派保育園」に入っていて、だから私自身「自然派の人」とくくられてしまうことも多いように思います。

 

なので、「今回の出産は助産院をえらびました」なんていうと、
「あー(そういう人ね的)っぽいぽい」と、「自分とはちょっとちがう感覚だから」と扱われてしまいがちなんですが、それでも、あえて伝えたい確信のようなものがあって。

 

それは、

「どこで産むのか、どんなふうに産むのかによって、その後の育児は100%変わる」

ということなんです。

 

私は、上の娘を病院で、下の娘を助産院で出産しました。
そして、病院での出産では得られなかった「幸福感」を、助産院では感じることができたという実感を持っています。

 

もちろん第一子、第二子というちがいもあると思います。
だけど、今回国分寺にある「矢島助産院」で出産させてもらったことで、
不思議なほど、「子どもは宝物なんだ。出産は女性の特権なんだ」と感じることができるようになりました。

 

「どうしてかな?」ってずいぶん考えました。「なにがちがったのかな?」って。
そして、「ああそうか、矢島助産院では、妊婦と赤ちゃんが主役のお産ができたんだ」ということに思い当たりました。

 

矢島のスタッフさんは検診ごとに、私のお産への不必要な不安や孤独を一枚一枚脱がせていってくれたんです。
それは、妊婦と赤ちゃんが主役のお産を経験させてくれるためだったんですよね。

 

たとえば、矢島では助産師を含む約10人のスタッフが、きちんと妊婦の情報を共有してくれています。
待合室で話した私の何気ないひと言でも、次の検診時にはみんなにその内容が共有されているんです。そして、スタッフのモチベーションが高く、いつでも笑顔でむかえてくれる。

 

正直、私は矢島のスタッフさんが最初から妊婦との距離が近いことに戸惑ったこともありました。
でも何度か通っているうちに、この距離の近さは「お産」という身も心も露わにして助産師さんとおこなう共同作業において、欠かせないものなんだということがわかってきました。
なんでも話せる関係をあらかじめ築いておくことで、この人たちは私たちに、「最高のお産」を提供しようとしてくれているんだ、ということが伝わってきたのです。

 

次第に、私は「ああ、私はここの助産師さんにだったら誰に赤ちゃんをとり上げてもらっても安心だ」と思えるようになりました。

陣痛がきたって、「矢島にさえつければ大丈夫だ」って。

 

正直、こと出産においては夫だって実家の母だって頼りにはならない。
それは、孤独で不安な妊婦と赤ちゃんのいとなみで、いざ頼りにできるのは、助産師さんというプロの存在だけ。
だからこそ、お産を前にこうした信頼関係を築けていることが、どれほどありがたいことか。

 

そして、その場所が助産院という医療介入のない、できない環境だからこそ、私は、より主体的な「妊婦」として育ててもらえたのだと感じているのです。
「医療行為」の主役は医療者なのでどうしても医者任せになってしまう。だけど、通常の「出産」であれば、それは私と赤ちゃんのいとなみなんですよね。

 

信じられないかもしれないけど、
矢島でのお産では、お母さんが赤ちゃんを自分の手で取り上げるんです。

私のときには、「ほら!頭もう見えてるから触ってみて!」と言われ、
鏡でその様子を見せてくれました。黒々とした赤ちゃんの髪が手に触れることで、
「ああ、もう少しで会えるんだ。あとほんのひとふんばりなんだ」という気持ちになり、それに後押しされて壮絶な痛みにも耐えることができたんです。

ぬめっとしたやわらかで温かな赤ちゃんの脇に手を差し込み、自分の胸まで引き上げて、今まさに生まれた我が子を抱いて過ごす充実感といったら。

 

第一子のときの病院での出産は、医療者の介助がしやすいようにと私は冷たい分娩台に上がりました。初めての医療機器の上で信じられないほど開脚しながら、どこにどう力を入れていいのかもわからなかったのを覚えています。

本当に、助産師さんに言われるがままの出産だったんです。
せっかく産まれてきた子どもなのに、なぜか「なんか、急にここに居るんだけど」みたいにしか思えなかったんですね。

 

矢島では、あらかじめ出産日数週間前に、「お産のデモンストレーション」が行われます。
ここでは、フリースタイル分娩でのお産の仕方を、助産師さんによる迫真の演技によって学ぶことができ、その後、妊婦さん自身も本番さながらに呼吸法や体勢のとり方などを実演していきます。
「私が産むんだ」という自覚を強くもつきっかけになった講習でした。

 

こうした充実した事前学習のおかげで、今回のお産では、いざ本番になっても「どうやればいい?」なんてことには一つもならずに済みました。
そのプロセスの一つひとつが、「妊婦が主体的の産む」ための準備であり、だからこそ、私は今回のお産ではいつも主役は「自分」であり、「赤ちゃん」なのだと感じていられたのだと思います。

母の本能を発揮し、ありのままの赤ちゃんを「かわいい」と思える育児ができているんだと思います。

 

感覚が敏感な0歳児の間に、とにかく徹底して愛情を与えて与えて与え切る。

 

「お産と子育てはつながっている」。フジヱさんが言いたかったのは、たぶんそういうことだろうと思うんです。

 

とはいえ、助産院での出産は妊婦さんにとってはハードルが高いのも事実。
妊婦さんの年齢や、逆子、週数、胎児の状態、いろいろな壁をクリアしてやっと実現できることであって、今は誰にでも叶うことではありません。
助産院での出産はひとつの選択肢だとは思いますが、もちろんそれがすべてではない。

 

私はこれまで、ライターとして多くの先進的な病院で、医師や看護師さんを取材してきました。そして、それと同じくらいホリスティックな医療の担い手にもインタビューしてきました。

そして、西洋医学もホリスティックな医療も、どちらも今の世の中には欠かせないと強く感じるようになりました。

 

なので、出産における医師の医療介入がだめだなんて、これっぽっちも思ってはいません。むしろ、それによって救われた命がどれだけ貴重で、多くの夫婦の支えとなっているのかを少しは人より多く知っていると思っています。

 

ただ、今回のお産を通して、
「どこででも産めればいい。お産なんてどれも一緒」と思うのは、ちょっとちがうのではないかなあと。
お産によって、その後の育児の大変さや子どもに対して抱く感情がこんなにもちがうということを知っているかどうかって、意外と大きいのと思うのです。

 

だって、せっかく産んだ我が子をかわいいと思えなかったらきっと、お母さんは自分自身を責めることになるから。

 

今は、偉そうな妊婦のことを「妊婦様」と呼ぶこともあるようだけど、
やっぱり、出産って重労働ですよ。
その人それぞれの「安心に包まれたお産」の方法は必ずある。
お母さんと赤ちゃん両方にとって、より不安の少ない「お産」を選択できる世の中になっていけばいいのになあ、と心から思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

残酷な鏡

2月
2017
01

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化粧鏡を買いました。

三面鏡、2倍・3倍鏡付き、LEDライト付きという、
それはそれはハイテクな鏡です。

だけどその鏡は、私にとって残酷きわまりないものでした。

どう残酷なのか?

これまでまったく見えていなかった、たるんだ毛穴、
ニキビ跡、うぶ毛、、肌ムラ、乾燥、ファンデーションのよれ、
カサつき、左右差、シワなんかが、

なんの遠慮もなく、私の目に真実をつきつけてきたのです。

 

 

実感としては、
ほとんど「これ、何年後の私?」
ってなかんじです。

 

いえいえ、「残念ながら、それがあなたの今です」と、
鏡は言いました。

 

絶句しました。
そして、私は鏡にたずねました。

 

「では、いつから私はこんな顔で外を歩いていたのかしら?」

鏡は言いました。

「私はあなたのところへやってきたばかりなのでわかりません。
ただ、昨日今日じゃないことだけは、たしかですよね」

 

ジーザス!!

 

 

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【ヒットメーカーに会ってみた!】黒川精一さん第2回「市場にない、売れる本」をつくるためにはどうすればいいか?

 

 

本日、校了!のカテゴリー「あう」で、
黒川精一さんインタビュー第2回目が更新されていました。

 

あー、待ちどおしかったぁ。

 

今回のテーマは、
「市場にない、売れる本」をつくるにはどうすればいいか?

 

この「市場にない」という点に、ピターッとはまる企画でヒットがでたとき、
編集力のすごさっていうのを、より多くのひとに感じてもらうことができるんじゃないでしょうか。
まさに、編集者の醍醐味的なポイントですよね。

 

 

第2回目は、「すぐに真似できない方法」と「すぐに真似できる方法」の両方が紹介されていました。

 

まず、残念ながら(私では)「すぐに真似できない方法」として紹介されていたのが、
自分の企画に類似した書籍がすでに市場に出回っていないかをチェックする手段、「パブライン」です。

 

パブラインというのは、紀伊国屋書店が提供するPOSデータを公表するシステムのことです。POSデータは「Point of Sales(ポイント・オブ・セールス)」の略で、「売上データ」のことなんですが、

各書店では、商品についているバーコードをスキャナーで読み取ると同時に、POSデータが伝わるようになっているんですね。
それを、出版社向けに公開しているのが「パブライン」です。
ただ、残念ながらパブラインは出版社向けのサービスなので、
一般人は利用できないようです。
紀伊国屋書店以外にもこうしたPOSデータの公開システムはあるようですが、やはりどれも書店向け。

なので、ちょっとフリーランスの私が活用するのは難しそうです。

 

ですが、今回も「すぐに真似できる方法」はありましたよ!

 

それが、「ありきたりな企画を、新鮮で魅力的な企画に変える方法」です。

 

黒川さんはその方法を、「商品を変えるか、お客さんを変えるか」の2つだとおっしゃっていました。

 

たとえば、「商品を変える」場合には、ありきたりな商品に意外なものと「組み合わせ」てみる。

 

インタビューでは「サンドウィッチ」を例に、
青空×サンドイッチ、寝る前×サンドイッチ、おせち×サンドイッチ、暴力×サンドイッチ、長寿×サンドイッチ、真夜中のサンドイッチ、トヨタのサンドイッチ、サンドイッチ・マネジメント……

みたいな組み合わせがあげられていました。昨今流行っている「健康麻雀」とかも、このタイプですよね。

 

そしてもう一つの、「お客さんを変える」というのは、
平たくいうと「別のくくりにしてあげる」こと。これによって、買ってくれるお客さんの層を広げる(変える)イメージです。

 

具体的には、先ほどの「サンドウィッチ」なら、
サンドウィッチは「時間がないとき」に食べることが多いから、時間の使い方に関心があるビジネスマン向けに『多忙な一流ビジネスパーソンのための 片手で食べられる食べもの』なんていう企画や、

「健康」をテーマに自分で食事をつくる気力がなくなってしまった中高年向けの企画を練るようなイメージ。

 

これ、脳内ブレストでもできるから
孤独なフリーランスでも、すぐに取り入れられる!またまたすっごい!

 

今回も、みちーっと密度の濃い内容に釘付けでした。

 

即実践です!

 

 

 

 

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[amazonjs asin=”B00IAQ7XMY” locale=”JP” title=”短歌の作り方、教えてください (角川ソフィア文庫)”]

 

やっばい本に、また出会ってしまった。

図書館の特設コーナーで発見したのだけど、
もう、これは買うしかないっしょレベル。

最近は、谷川俊太郎さんや糸井重里さん、本書の俵万智さんなど
私からすると、「言葉の神様」のような人たちの書籍を読み込んでいるのだけれど、
その、密度ったら。

 

少しでもあやかりたくて、短歌、ほんの少しだけ齧ってみることにしました。

本書は、独特な言葉の世界観を持つ一青 窈さんに、
俵 万智さんが、短歌を教えるという内容。

二人のメールの往来をそのまま掲載して構成されているため、
俵さんの指摘によって、型におさまったはずの一青さんワールドが
より広がりを持っていくのが不思議。

この本を手にしてから、
私は、5・7・5・7・7で切り取られた世界を意識するようになり、

そうすると、ふしぎなことに視界に入ってくるすべての風景に、
まるで額縁がついたかのような錯覚が起きるのです。

短歌は、そこにキャプションをつけていくようなものなのかもしれない。

 

一青さんのように、もっと自由な言葉の使い手になりたい。
俵さんのような、密度の濃い言葉を紡いで生きていきたい。

 

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2月に入るとすぐに、私は37歳になる。

 

20代の頃は、30代になれることがうれしかった。

 

だけど、そろそろアラフォーと言われる年齢を迎えた今、
40代に突入することが、とてつもなく怖い。

 

 

30代と40代のちがい。

 

それはあくまでも私が思っているだけで
少々、偏っているかもしれない。

 

そのちがいを私は、

 

言葉が、洋服やアクセサリーのように自分の身に纏うものであった30代と、
言葉が、自分の骨肉になる40代

 

と、言いあらわすことができるのではないかと思っている。

 

だから、30代の頃なら

流行の、借り物の言葉をまるで自分の言葉であるかのようにSNSなどで発信することができたし、
そのことへの恥じらいも少なかった。

 
だけど40代に入ると、言葉は自分の存在そのものであるから、
そんな恥ずかしいことはできない。
愛情の深さや、考察、思考の深さがそのまま、
人間としての深さに直結してしまう。

言葉は30代の頃の勢いによるものから、
「存在感」の一部として血肉化するから、誤魔化しがきかない。

 

あるレストランへ行ったときのこと、

そこは、サービス料金を提示している店で
各テーブルには、オーダーなどをとってくれる専属の店員さんがついていた。

だけど、私たちのテーブルの店員さんが
オーダーを1つ、忘れてしまった。

私は、そのことを近くにいり手の空いている店員さんを呼び止めて伝えてしまった。
するとすぐに、担当の店員さんがやってきて「申し訳ありませんでした」
と頭を下げた。

 

私は、「いいですよ」と軽く言ってすぐに食事に戻ったのだけれど、
ふと、思った。

これでは足りない。

40代になった私は、こんなことではいけない。

 

40代の私は、相手のもっとも望んでいる言葉をかけられる人でなければならない。

さっきのケースでいえば、
担当の店員さんがくるのを待って、そっとそのことを告げるべきだったし

謝られた時には、
「もうお腹がいっぱいだったので、大丈夫ですよ。お勘定に入っていなければ問題ないので」

と言えばよかったのだ。

 

40代になったら、

相手の望んでいる言葉をスマートにかけられる人でなければならない。

季節の花の名前を、すらりと言える人でなければいけない。

その花について詠われている、短歌や俳句を一つは知っていなければならない。

物の価値を知って、それを愛でる習慣をつけなければならない。

 

「ならない、ならない」でがんじがらめになっているのは
まだ、私が30代だからだろうか?

だけど今、見えている40代のハードルはとてつもなく高い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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出版関係者ならば、
のどから手が出るほどほしい情報を
なんと、まあ、あっさりと(無料で)公開してしまっているのか?!

 

と、大げさでもなんでもなく、私が驚愕したサイトがあるんです。

 

それが、「本日校了(http://honjitsukoryo.com/)」。

 

すごーいすごーい!

 

なにがすごいって、なんでもこのサイトは、
普段は実用書を手がけている女性編集者4名とプロの写真家、デザイナーなどが
出版社の枠を超えて結集し、「プライベート編集部」として
運営しているそうなんです。

 

みなさん、仕事で受け持たれている書籍だけでも相当あるはずなのに
こうして実務とは別のところで新たに発信していこうとされていて、
もう、その根っこにあるのは、

 

本当に「伝える」ことが好きで、
それを発信していくことで「人の役に立ちたい!」という、あつーい気持ち以外のなにものでもない!

 

のでしょうね。

 

ああ、感服。

 

サイト内には、「あう」と「まなぶ」という2つのテーマが設けられているのですが、
第1回目の「あう」は、「一生懸命につくった本が売れない」っていう事態を減らす方法を教えてください!」

という直球の質問を、サンマーク出版のヒットメーカー「黒川精一さん」にぶつけています。

 

黒川さんといえば、
『医者に殺されない47の心得』、『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』で2年連続ミリオンセラーを出され、

2016年には、『どんなに体がかたい人でもベターッと開脚できるようになるすごい方法』がミリオンセラーとなっている、まさに生きる伝説のような編集者です。(本文より抜粋)

 

メディアにはほとんど登場されないそうで、
だからこそ、ここでしか語られない「レア感」もあり

しかも、池田るりこさんという会社の後輩にあたる編集者さんが、
後輩という立場をフルに活かして、どんどん鋭いところに切り込んでいってくれるんですよね。

こんな、ありがたい情報を惜しげも無く提供してくれる
その太っ腹さ、ありがたいっす!

 

このインタビューで、私がめちゃくちゃ参考になったのが
「ジャンル分析」のおはなしでした。

黒川流の企画のつくり方は
まず、「各ジャンルにどのくらいのお客さんがいるか?」から考えるのだとか。
書籍企画の場合、購買予定読者はざっくり20万人くらいが目安とも言われていますから、
これなら、なんとなくイメージつきますよね。

 

だけど、黒川さんの場合はここからがすごい。

 

よく言われている、いわゆる「売れ線の書籍ジャンル」といえば
お金、健康、ダイエット、食事、家族、日本語、英語・・・ですが、

ここから、さらに「お金」であれば
男性向けの金融投資、不動産投資、自己啓発的な思考系、副業、女性向けの節約、貯金、家計簿活用法など、ジャンルを細分化していくんだそうです。

そして、たとえば「不動産投資」を得意とする著者がいた場合には、
その著者のノウハウに、どんなテーマを応用すれば「お客さんの数(購買予定者数)を満たすことができるか?」と、逆算していくんですね。
「不動産投資×節約」とか「不動産投資×思考法」なんていう具合に。
だから、実際には不動産投資の話をしていても、切り口はがらりと変わる。

黒川さんが以前手がけられた『お金が貯まるのどっち?!』という書籍も、
著者から持ち込まれた時点でのテーマは、「不動産投資」だったそうです。

 

目から鱗。
私、完全に著者さんのノウハウだけで購買予定者数を算出していました。
著者さん頼み・・・。

わふ。

 

黒川さんのインタビューは全8回が予定されています。

今後は、以下のテーマが公開されるそうなので要チェック!

 

第2回「市場にない、売れる本」をつくるためにはどうすればいいか?
第3回「自分がおもしろいと思っているものをつくると売れるのか問題」
第4回「本づくりをはじめる前に、かならず満たしておくべきこと」
第5回「カバーをつくるときの、6つのチェックポイント」
第6回「原稿づくりの方法」って?
第7回「編集ができるようになるトレーニング」ってありますか?
第8回「本を売り伸ばすための、PR」について教えてください!

 

みなさん本当にお忙しいだろうし、
女性なのでライフステージが変わることもあるでしょうけど
長く続けてほしいサイトですよね〜。

 

 

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[amazonjs asin=”4415025137″ locale=”JP” title=”俳句の花図鑑”]

 

「椿って、ずいぶん長く、冬の間中咲いている花なんだなあ」
なんておもっていたのですが、

先日、「俳句の花図鑑」という書籍をながめていて知りました。
山茶花(さざんか)って、
椿とほんとうによく似ているんですね。
それもそのはずで、江戸時代以前の古い文献に山茶花の名はなく、
椿と山茶花は、厳密には区別されていなかったというのです。

 

 

改めて、二つの花のちがいを調べてみると、
割と簡単に、NAVERとかにも出ていました。

 

ひとつは、花を咲かせる時期。

 

山茶花が、秋から冬にかけて花を咲かせるのに対し
椿は、初春。

年の半分くらい椿が咲いているように思えていたのは、
このためだったようです。

 

あとは、花びらの枚数がちがったり、

葉っぱが、椿はほとんど淵にぎざぎざがないのに対し、
山茶花の葉は、淵がギザギザとしてとがっていたりと、
細かく見ていくと
二つの花にはいろいろと違いがあるらしい。
だけど、とりわけ私が心惹かれたのは、
花の「散り方」。

 

山茶花は、一枚一枚の花びらがバラバラになって地面に散っていくのだけれど、
椿は、花の根元からぽとりと落ちて、地面でもまた花を咲かせる。

 

咲いているときには同じように見えていた花の「散り際」に、
ここまではっきりとした違いがあるなんて。

 

なんと、耽美な。

 

最近は、私の周りで両親の姉兄たちがつぎつぎと病に倒れており、
つくづく、人の生き方と死に方というものは
1本の線でつながっているのだと、感じています。

 

そう考えると、
全盛期の椿と山茶花は、変わらずたいそううつくしいのだけれど、
散っても尚、地面に花を咲かせ続ける椿と

「我が生涯に一片の悔いなし!by ラオウ」とばかりに、
思い切って散る山茶花が辿ってきたそれまでの咲き乱れ方が同じであるはずはなく、

 

私は、もっと丁寧に、慎重に二つの花の「咲き方」を
感じて、見つめていくべきだったのだと、思いました。

 

書籍より抜粋。

 

・山茶花の こぼれつぐなり 夜も見ゆ 加藤楸邨(かとう しゅうそん)
・月夜にて 山茶花が散る 止めどなし(細見 綾子)

 

 

 

 

 

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「微睡み(まどろみ)」って
辞書で調べると「仮眠」とか「束の間の眠り」みたいに書いてあるけど、なんか、ちょっとちがうような。

 

私が思う「まどろみ」には、
睡眠に入る前の、あの甘ったるくて、ゆっるーい、どこまでも怠惰な時間も
含まれているのだけどなあ。

 

【今日の備忘録】

(人物トピック)工業デザーナー 奥山清行
日本人初のフェラーリデザイナー。

 

「シンプルは単純ということではない」

 

とおっしゃった。

 

よく、シンプルという言葉には、
「無駄なものを一切排除した」という枕詞がつくのだけれど、

「排除」って言い方は、ちょっと強いよね。

 

多くの無駄があって、だけどそれも試行錯誤の一部であるわけで、
「最終的に残った形」というのは、
そうした試行錯誤がくりかえされた結果だから。

 

そう考えると、「最終的に残った形」と「排除された形」なんてものは、
光と影のように
本当は、単にどこにスポットライトを当てるかだけのちがいでしかなくて
それを、他人が結果だけをみて、そう評しているだけに過ぎないのかもしれない。

 

 

(人物トピック)
伊藤豊雄(建築家)  体験学習施設ぐりんぐりん(福岡)に、行って見たい。
建築家の姉と娘たちといっしょに。

 

 

 

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毎日の記録をつけよう。備忘録として。

でないと、ほとんどの時間を自宅で赤ん坊と過ごしているので
あまりに幸せすぎて、ものごとを意識的にとらえることができなくなってしまいそうだから。

皆川 明×糸井重里 http://www.1101.com/mina2015/
本当なら今すぐ読みたい記事。

だけど、ののこ(娘 1ヵ月)が泣いて起きてしまったし
もう、4歳児である長女 のお迎えがあるから、忘れてしまいそう。

いつ、読めるかな?みんなが寝静まった夜?

妊娠中に読もうとおもって買っておいた書籍は
もうほとんど読み終わってしまったので、
谷川俊太郎さんの「ひとり暮らし」を再読。

一度目にはきづかなかった
【由無し(よしなし)】という美しい言葉に出会ったのだけど、
よく考えると、これまた昨年再読した「徒然草」の有名な冒頭のことばだったのか。

こういうの、ぱぱっと結びつけられるくらいの知識がほしい。

以下引用。

徒然なるままに、日ぐらし、
(なんとなく一日中)

硯に向かいて、
(硯に向かって)

心にうつりゆくよしなし事
(心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを)

そこはかとなく書きつくれば、
(あてもなく書きつけていると)

あやしうこそ物狂おしけれ
(まるでなにかに憑かれたように筆が止まらない)

そこで調べてみると、
この【よしなし事】という意味が、思った以上にいろいろな意味をもっていました。

①理由がない。根拠がない。
②方法がない。手段がない。
③つまらない。とりとめがない。くだらない。無意味だ。
④関係がない。縁がない。

とりとめがないことなどつまらないし、くだらない。第一根拠がないではないか?
そんなことは無意味だ。

なんて、よしなし事だけで一文が完成してしまえるほど
含蓄のある。

いつか、使おう。

 

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[amazonjs asin=”B00KS3F45U” locale=”JP” title=”アートサーカス サーカスを越えた魔力 (光文社新書)”]

むかしから、人が何ひとつ媒介することなく、
生身の肉体だけをつかって芸術へと昇華させていくプロセスや、そこから生み出される芸術に
つよくつよく心惹かれるのです。

たとえばそれは、シンクロナイズドスイミングのビルジニー・デデューが演じたマリア・カラスであったり、シルビィ・ギエムが踊るボレロだったりするのですが、

私は、初めてシルク・ドゥ・ソレイユを観たときにも、それらとおなじような吸引力を感じました。

シルク・ドゥ・ソレイユを最初に観たのは、原宿の仮設テントでおこなわれた「コルテオ」でした。
道化師をテーマにしたコルテオは、小さな人や大きな人、太った人など
とてもアクロバティックなサーカスをおこなうために集められたとはおもえないようなキャストが勢ぞろいしていて、でも、そういえばこの多様性こそが、昔ながらのサーカスの醍醐味だったのではないかと、改めて気づかされました。

私は、「動物」によって演出するサーカスがあまり好みではないので
人間だけで魅せるそのスタイルにはおおいに賛同しましたし、
この書籍のタイトルになっている
サーカスのアクロバティックが、「アート」となり得るまでに研ぎ澄まされて演じられていることにも震えるほど感動しました。

だけど、シルク・ドゥ・ソレイユのすごさは、もしかするともっと別の部分に隠されているのかもしれない。
本書には、そうした「ちょっとちがったシルク・ドゥ・ソレイユの素晴らしさ」が
語られているんですよね。
そしてそのすごさを、私は、決してサーカスから踏み外れることのない、そのバランス感覚にあるのではないか、とおもいました。

少し話はそれてしまいますが、

忘れられない演目に、5年契約で東京ディズニーランドの敷地内の一角でおこなわれていた、「Z (ゼット)」があります。

開始からすでに数年が経っていて平日の部だったこともあり、
その日の客席には、ちらほら空席も見られました。
だけどその日は、開演前から観客とキャストが同じ濃度の空気を吸っているような、不思議な一体感がありました。
前から2列目の席に恵まれた私は、
空中ブランコでキャストが滑り止めとして両手にはたいた白い粉が顔に舞ってくるという、
ちょっとキャスト側に立っているかのような錯覚も味わうことができたのです。

演者の汗が、それも演出なのではないかと思わせるほど
光に弾けて、ステージ上でほとばしっていました。

すべての演目が終わっても、観客は誰一人として立ち上がることがなく
拍手を送り続けていました。

キャストによる扇動もいっさいないのに、どこからともなくウェーブが起こり、
私もごく自然にその波に乗って最後はスタンディングオベーション。
完全にオーディエンスとキャストが一体化しているという、未知の体験でした。

その後も、あの感覚をもう一度味わえればとおもい再訪したのですが、
やはり、それは叶いませんでした。
きっと、キャストやオーディエンスがあのときとまったく同じだったとしても無理でしょう。
あれはあの場だけの、時間と空間だけが作り出す奇跡のような貴重なひと時だったのだと思います。

その後、シルク・ドゥ・ソレイユは広く世間に浸透していきました。
それにより、エンターテインメントは以前よりずいぶん急速に進化していったように思います。

それは、歌手や芸能人のコンサートなどにも強く影響しました。

シルク・ドゥ・ソレイユの衝撃は、観客の目を肥やし
エンターテインメントそのもののハードルを上げてしまったのかもしれません。
ですが、書籍にも書かれていることですが、
シルク・ドゥ・ソレイユは、キャストにスターを作らないというスタンスをとっているのだそうです。

なぜか。

あくまでも推測に過ぎませんが、
スターの存在は、サーカスがサーカスたる根底を変えてしまうのではないでしょうか。

サーカスは、大人から子供まで楽しめる大衆のためのものでなくてはならない。
どんなに高度なアクロバティックで観客を釘付けにしても、
アートと呼ばれるまでに演目を昇華させることができたとしても、
やはりそこは、大衆芸術なんですよね。

それこそが、シンクロやバレエとはちがうサーカスの魅力でもあると思うのです。
その本筋を常にぶれることなく持ち続けているからこそ、
シルク・ドゥ・ソレイユはアートサーカスという新ジャンルのパイオニアとなり得たし、
エンターテインメントの未来をを牽引することもできたのだと。

とりとめもなく、
そんなことを強く感じたのでした。