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映画「ゆれる」を初めて観たとき、自分が思い描いていた「こんな映画があったらいいのに」というものがそのまま具現化されていることにすごくおどろいたのを覚えている。そしてそれを撮影した人が、自分とそこまで年の変わらない女性であることを知り、二度おどろいた。

 

だって、きれいなんだもん。

 

映画監督って、もっと眉間にシワの寄ったおじさんという先入観、あるよね(笑)。

 

「永い言い訳」は、そんな西川美和監督の頭の中を少しでも辿ろうと、映画を観る前に原作を読み、さらには今作のさまざまなインタビューを読んでから挑むことにした。今作で初めて西川美和監督が先に小説を書き、そのあとで映画を撮ったと聞き、知っていたからだ。
初めて読んだ西川美和監督の小説には、映画からもひしひしと伝わって来る文学性がよりくっきりとした形でそこにあって、印刷された「ことば」の一つひとつがそこにあるべきものであることを確信しているかのように、アイデンティティを持って存在していた。美しい文章はたくさんあるけれど、こんなにも「ことば」が魚のように鮮度よくはじけている文章に出会ったことはそうないように思えた。うそじゃなく、単語が立ち上がって踊って見えた。

 

原作を読んでから観る映画はたくさんあるけど、原作から監督が書いている映画を観る機会はそうあるものではない。
映画の冒頭はまるで、小説家 西川美和と、映画監督 西川美和の頭の中を行ったり来たりしているかのように錯覚することができ、西川ファンとしてはうれしい。

特に冒頭は、生意気にも「ああ、映画だと尺が短いからここを削るわけね」みたいに斜に構えて観ていたのだけど、でも次第に、小説のように主人公の気持ちを「語る」ことができない映画という媒体だけに、より繊細に、計算されてことばや動作や構図や音楽が使われていることに釘付けになった。そこにはひとつの画面から濃密な「伝えるべきこと」が溢れていた。

 

はらはらする場面もあった。
最初の方で、陽一が事故を起こした会社の社員に向かってマンゴーを投げつけるシーンなんて、小説読んでなければ「なぜ、マンゴー!!(ゴリラかよ)」と思いそうなものだけど(それは謝罪としてバス会社が遺族に贈ったフルーツ盛りの一部だった)、そこの説明なんて一切しないという潔さ。たぶん、西川美和監督は観客の観る力を信じているんだろうなあ。

 

彼女の作品を観ると、恐れ多くも嫉妬してしまう。
映画だけならまだしも、小説でもこんなものを残されてしまっては、私は一体文字の世界で何がしたいのだろうと思わずにはいられず小さくなってしまう。

そして、エンドロールで「原作・脚本・監督 西川美和」という文字が最後に流れるのを見ながら、軽く絶望してしまう。

 

だけど、書くよ。

西川美和監督は自分のことを決して「小説家」とは名乗らない。小説家であるとは思っていないと言っていたから。だったら、文字の世界だけでできることだって、まだまだ残されているのではないかと思う。

 

だけどね。ああ、圧巻。

 

 

 

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昔、まだ小さかった頃は、
散歩にいくと、ポケットいっぱいに「無駄なもの」を入れてもち帰って
それを工夫して、へんてこな造形物を作ったりしていた。

それ自体にはなんにも意味がないのだけど、そのプロセスがすごくたのしかった。

いまは、もう「無駄なもの」をあつめて「意味のない」ようなものをつくることはしなくなった。
そのかわりあつめるようになったのは、「すぐ役に立つもの」ばかり。

たしかに、役に立つものには「意味」があるんだけど、
「たのしい」が持続する時間は、極端に短くなってしまったようにおもう。

すぐ役に立つものはすぐに役に立たなくなるもの、とおしえてくれたのは
だれだったろう?

もうすぐ4歳になる娘をみていて、
わたしは、たまにものすごく羨しくなることがある。

それはきっと、彼女がとても「豊か」だからなのだとおもう。

「豊かさ」において、
わたしはまだまだ彼女にかなわない。

大人になるほど、こんなにも未熟。

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まちの本屋 知を編み、血を継ぎ、地を耕す盛岡にある書店の店長さん、田口幹人さんの本
「まちの本屋 知を編み、血を継ぎ、地を耕す」を読了。

正直、なめていました。ごめんなさい。
本屋さんがここまで心血をそそぎ込んで本を売ってくださっていたなんて想像することすらできていなかったこれまでの私が、心底恥ずかしい。

そして同時に、出版不況がさけばれる現代にあって、
「希望」のようなものを手渡されたような気にもなりました。

それは、東日本大震災のあと、まだライフラインも整わない中で被災した人々が求めたのは「本」だった。という事実。

それを知って、ある小説家さんが「私は世間の人々のように、人が絶対に必要とするものを提供していないことに、どこか後ろめたさを感じていた」
という言葉をおもいだし、

なんだか、その方の背中をバンバン叩きながら「そんなことなかったってよ! 」と、
ビール片手に乾杯したくなりました。
本って、偉大。そして田口さんのような書店員さんは、本物だとおもった。

この本のブックライターは、上坂徹さん。
私が、本に携わるお仕事ができるようになったのはこの方のおかげです。

ぜひ!

最初の読者

3月
2016
13

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箱庭図書館 (集英社文庫)

乙一の「箱庭図書館」では、

階段から転げ落ちてもなお読みかけの本の間にはさんだ指をはなさないという、
ちょっと心配になるくらい「活字中毒」の、乙一の姉(という設定であり、実在の人物ではないらしい)がでてくる。

乙一は、姉とこんな会話を交わしている。

姉 「たっちゃんの小説おもしろいよ。(省略)どうやったら、ああいうの、書けるの?」
乙一「読者を想定するんだ。あとがきに書いた。H先生みたいのを」
姉 「頭のなかに読者がいるの?」
乙一「読者が住み着いている。学校ぎらいの少年が」

その少年とは、幼いころの乙一のことだ。
そして乙一はこう続けている。

なにか文章を書くと、頭のなかでその少年に読んでもらって反応をたしかめている。せめて、その子をうらぎるようなものだけは書かないようにしようとおもっていた。

どこかで、私はおなじようなフレーズをきいたような気がしていた。
そして、それが漫画家 浦沢直樹さんであることを思いだした。
浦沢さんも、かつてNHKの番組「漫勉」のなかで

「浦沢少年を裏切るようなものだけはつくれないっておもっているんだ」
というようなことをおっしゃっていた。

自分のなかに、「絶対的な読者」を持つということ。

それは、作品のクオリティを維持するモチベーションとしてはもちろん、
作品そのものを「強くする」んだろうとおもう。

だけど、それが「かつての自分」であるというのは、
どういう感覚なのだろうか、凡庸なわたしには、ちょっと想像がつかない。

ライターの私は、いつも書いている記事によって読者がかわるし、
依頼主のもとめるお客さんを想像して書いている。
だけどきっと、それは乙一や浦沢さんだってもちろんそうなのだろうとおもう。

実際、この本のあとがきには、

僕は小説のアイデアがなかなかおもいつかない人間なのです。だからアイデアを読者に募ってみましょう、そうしたら仕事をします、小説かけます、という話を編集者にしたところ、この企画がスタートしたというわけです。
(省略)
ボツ原稿を送ってもらう、という企画の性質上、投稿者の大半が作家志望者なのではないかとも考えていたんです。それなら、こういう題名(「第1章の小説家の作り方」のこと)で、こういう内容だったら、素通りせずに注目してもらえるんじゃないかという期待がありました。

と書いてあって、むしろ強烈に読者のイメージをもっていることがわかります。

だけどきっと、乙一や浦沢さんには、さらにそうした「読者をイメージして書いている自分」のことを見ている第三の俯瞰者がいて、それが「乙一少年」や「浦沢少年」のことなんだろうとおもうのです。

すごい人というのはどんな仕事の人でも、
みんな、そうした俯瞰する目をいくつも持っているのだと、
以前、このサイト内のインタビューに協力してくれた紙芝居師のヤムちゃんがおしえてくれました。

いつかは、わたしも・・・。
そこにたどり着くまでの道筋なんてまったく見えないけれど、
まだ見ぬ景色に焦がれて、悶絶。

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わざわざスクリーンでみなければ味わえない映画というのは、
こういう映画のことをいうのではないだろうか?

儚すぎて、1mmでも「現実」が入ってしまうと
とたんに現実にもどされてしまうようなものがたり。
もし、自宅のDVDで観ていたとしたら、ここまで前のめりになってみることはなかっただろうなあ。

その証拠に、鑑賞後、明るくなったと同時に目に入ってきたのは
前の席のおばさまのパンチパーマだったのだけど、
それはそれはすごいはやさで、現実の、日本の、おばさまの、パンチパーマに連れ戻され・・・。

物語の舞台は、1950年代のニューヨーク。

デパートのおもちゃ売り場で働くテレーズ(ルーニー・マーラ)のもとに、
キャロル(ケイト・ブランシェット)が、4歳になる娘のクリスマスプレゼントを買いにやってきたところからはじまる。
二人はその後、恋に落ちるのだけれど、おもしろいのはその設定。

「あの時代にして同性愛を貫くなんて・・・」という以前に、
ルイーズには熱心にプロポーズしてくる恋人がいるし、テレーズにはそもそも夫も娘もいて、
そうした未来の「家族」、現在の「家族」が
結果として二人を恋愛にまで発展させるきっかけとなってしまうのだから。

そう考えると、もちろん純愛映画ではあるけど、
ある意味、女性が自立していくプロセスを追っているのかもしれない。

ミステリアスで魅力的なキャロルは、
あの時代の男性が求める「妻」の枠におさまるような女性ではなかったし、
だからといって、望まない生き方をつづけていけるほど、強くも鈍感でもなかった。
夫は彼女を愛していたし、仕事人間だけれどけっして悪い人ではない。
それでも、自分の気持ちをわかってもらえるのはあの時代だけに、「女性」しかいなかったのだ。

だから、たまたま求めたのは女性だった。

同性愛というのは、生まれながらにそれを求める人ばかりでなく、
環境によって生まれてくるところがあるのかもしれない。

映画.comによると、「太陽がいっぱい」などで知られるアメリカの女性作家パトリシア・ハイスミスが52年に発表したベストセラー小説「ザ・プライス・オブ・ソルト」を、「エデンより彼方に」のトッド・ヘインズ監督が映画化したのだそうな。

ケイト・ブランシェットはもちろん
とにかく、ルーニー・マーラの存在感が作品のイニシアティブをにぎっていた
といっても過言ではないとおもう。

この映画を観るなら、映画館。
それだけは、言えるなあ。