映画「永い言い訳」。小説「永い言い訳」。

10月
2016
15

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映画「ゆれる」を初めて観たとき、自分が思い描いていた「こんな映画があったらいいのに」というものがそのまま具現化されていることにすごくおどろいたのを覚えている。そしてそれを撮影した人が、自分とそこまで年の変わらない女性であることを知り、二度おどろいた。

 

だって、きれいなんだもん。

 

映画監督って、もっと眉間にシワの寄ったおじさんという先入観、あるよね(笑)。

 

「永い言い訳」は、そんな西川美和監督の頭の中を少しでも辿ろうと、映画を観る前に原作を読み、さらには今作のさまざまなインタビューを読んでから挑むことにした。今作で初めて西川美和監督が先に小説を書き、そのあとで映画を撮ったと聞き、知っていたからだ。
初めて読んだ西川美和監督の小説には、映画からもひしひしと伝わって来る文学性がよりくっきりとした形でそこにあって、印刷された「ことば」の一つひとつがそこにあるべきものであることを確信しているかのように、アイデンティティを持って存在していた。美しい文章はたくさんあるけれど、こんなにも「ことば」が魚のように鮮度よくはじけている文章に出会ったことはそうないように思えた。うそじゃなく、単語が立ち上がって踊って見えた。

 

原作を読んでから観る映画はたくさんあるけど、原作から監督が書いている映画を観る機会はそうあるものではない。
映画の冒頭はまるで、小説家 西川美和と、映画監督 西川美和の頭の中を行ったり来たりしているかのように錯覚することができ、西川ファンとしてはうれしい。

特に冒頭は、生意気にも「ああ、映画だと尺が短いからここを削るわけね」みたいに斜に構えて観ていたのだけど、でも次第に、小説のように主人公の気持ちを「語る」ことができない映画という媒体だけに、より繊細に、計算されてことばや動作や構図や音楽が使われていることに釘付けになった。そこにはひとつの画面から濃密な「伝えるべきこと」が溢れていた。

 

はらはらする場面もあった。
最初の方で、陽一が事故を起こした会社の社員に向かってマンゴーを投げつけるシーンなんて、小説読んでなければ「なぜ、マンゴー!!(ゴリラかよ)」と思いそうなものだけど(それは謝罪としてバス会社が遺族に贈ったフルーツ盛りの一部だった)、そこの説明なんて一切しないという潔さ。たぶん、西川美和監督は観客の観る力を信じているんだろうなあ。

 

彼女の作品を観ると、恐れ多くも嫉妬してしまう。
映画だけならまだしも、小説でもこんなものを残されてしまっては、私は一体文字の世界で何がしたいのだろうと思わずにはいられず小さくなってしまう。

そして、エンドロールで「原作・脚本・監督 西川美和」という文字が最後に流れるのを見ながら、軽く絶望してしまう。

 

だけど、書くよ。

西川美和監督は自分のことを決して「小説家」とは名乗らない。小説家であるとは思っていないと言っていたから。だったら、文字の世界だけでできることだって、まだまだ残されているのではないかと思う。

 

だけどね。ああ、圧巻。