アートサーカス サーカスを越えた魔力 (光文社新書)

1月
2017
15

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むかしから、人が何ひとつ媒介することなく、
生身の肉体だけをつかって芸術へと昇華させていくプロセスや、そこから生み出される芸術に
つよくつよく心惹かれるのです。

たとえばそれは、シンクロナイズドスイミングのビルジニー・デデューが演じたマリア・カラスであったり、シルビィ・ギエムが踊るボレロだったりするのですが、

私は、初めてシルク・ドゥ・ソレイユを観たときにも、それらとおなじような吸引力を感じました。

シルク・ドゥ・ソレイユを最初に観たのは、原宿の仮設テントでおこなわれた「コルテオ」でした。
道化師をテーマにしたコルテオは、小さな人や大きな人、太った人など
とてもアクロバティックなサーカスをおこなうために集められたとはおもえないようなキャストが勢ぞろいしていて、でも、そういえばこの多様性こそが、昔ながらのサーカスの醍醐味だったのではないかと、改めて気づかされました。

私は、「動物」によって演出するサーカスがあまり好みではないので
人間だけで魅せるそのスタイルにはおおいに賛同しましたし、
この書籍のタイトルになっている
サーカスのアクロバティックが、「アート」となり得るまでに研ぎ澄まされて演じられていることにも震えるほど感動しました。

だけど、シルク・ドゥ・ソレイユのすごさは、もしかするともっと別の部分に隠されているのかもしれない。
本書には、そうした「ちょっとちがったシルク・ドゥ・ソレイユの素晴らしさ」が
語られているんですよね。
そしてそのすごさを、私は、決してサーカスから踏み外れることのない、そのバランス感覚にあるのではないか、とおもいました。

少し話はそれてしまいますが、

忘れられない演目に、5年契約で東京ディズニーランドの敷地内の一角でおこなわれていた、「Z (ゼット)」があります。

開始からすでに数年が経っていて平日の部だったこともあり、
その日の客席には、ちらほら空席も見られました。
だけどその日は、開演前から観客とキャストが同じ濃度の空気を吸っているような、不思議な一体感がありました。
前から2列目の席に恵まれた私は、
空中ブランコでキャストが滑り止めとして両手にはたいた白い粉が顔に舞ってくるという、
ちょっとキャスト側に立っているかのような錯覚も味わうことができたのです。

演者の汗が、それも演出なのではないかと思わせるほど
光に弾けて、ステージ上でほとばしっていました。

すべての演目が終わっても、観客は誰一人として立ち上がることがなく
拍手を送り続けていました。

キャストによる扇動もいっさいないのに、どこからともなくウェーブが起こり、
私もごく自然にその波に乗って最後はスタンディングオベーション。
完全にオーディエンスとキャストが一体化しているという、未知の体験でした。

その後も、あの感覚をもう一度味わえればとおもい再訪したのですが、
やはり、それは叶いませんでした。
きっと、キャストやオーディエンスがあのときとまったく同じだったとしても無理でしょう。
あれはあの場だけの、時間と空間だけが作り出す奇跡のような貴重なひと時だったのだと思います。

その後、シルク・ドゥ・ソレイユは広く世間に浸透していきました。
それにより、エンターテインメントは以前よりずいぶん急速に進化していったように思います。

それは、歌手や芸能人のコンサートなどにも強く影響しました。

シルク・ドゥ・ソレイユの衝撃は、観客の目を肥やし
エンターテインメントそのもののハードルを上げてしまったのかもしれません。
ですが、書籍にも書かれていることですが、
シルク・ドゥ・ソレイユは、キャストにスターを作らないというスタンスをとっているのだそうです。

なぜか。

あくまでも推測に過ぎませんが、
スターの存在は、サーカスがサーカスたる根底を変えてしまうのではないでしょうか。

サーカスは、大人から子供まで楽しめる大衆のためのものでなくてはならない。
どんなに高度なアクロバティックで観客を釘付けにしても、
アートと呼ばれるまでに演目を昇華させることができたとしても、
やはりそこは、大衆芸術なんですよね。

それこそが、シンクロやバレエとはちがうサーカスの魅力でもあると思うのです。
その本筋を常にぶれることなく持ち続けているからこそ、
シルク・ドゥ・ソレイユはアートサーカスという新ジャンルのパイオニアとなり得たし、
エンターテインメントの未来をを牽引することもできたのだと。

とりとめもなく、
そんなことを強く感じたのでした。