元祖癒し系

2月
2017
14

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「癒し系」ってことば、最近はめっきりきかなくなったけれど
少し前までは「もてる女」の代名詞としてつかわれていたように思う。
もったりとした口調、ゆったりとした動作、まどろむような笑顔といったステレオタイプなそのイメージはさておき、「癒し系」が忙しい現代人に求められる理由はよくわかる。

 

人は、居心地がいい人のそばにいるだけで「何かを与えられた」と感じられるからだ。

 

 

そして最近、私は癒し系の元祖が「赤ちゃんなのではないか?」ということに、思い至った。

特に、まだ「飲んで・出して・寝て」を繰り返しているだけの新生児から3ヵ月くらいまでの赤ちゃんはすごい。
赤ちゃんのそばにいると、どうしてこんなにも「与えられている」と、素直に思えるのか。

 

ふにゃふにゃの肌、ミルクのにおい、なにもかも小さく愛らしい姿。癒しの要素を全身にまとって放出させているのはもちろんのこと、

だけどその実、腹が空けば泣き、うんこすればまた泣き、満足すれば寝るという赤ちゃん。そんなことをもし大人がやってのけたとしたら、それは一転、傍若無人なふるまいににほかならない。
やっていることが一緒だとしても、できるのにやらないのと、今できることを精一杯やってそれなのでは、まったく意味合いが異なるからだ。

 

思うに「癒し系」として重要なのは、「邪念をもたないほど一生懸命にやる」ということなのではないか、と思う。
赤ちゃんの興味対象といえば、飲んで、出して、寝るばかり。それだけしかできないのだし、それだけに全身全霊をかけてやりきる。周囲のことなどおかまいなしに。
だけれどもそれこそが、癒しのオーラを放出する重要な要素なのだろうと思う。

そして、それに近い感覚を持つ大人にも、たまに出会うことがある。
私の場合、その多くが「明確な目標にわきめも振らず邁進するアーティスト」だ。
そして重要なのはアーティストということではなくって、
「わきめも振らず邁進する」こと。邪念をもたないほどに。

 

吸いもあまいも知ってしまうのが、悲しくも欠かせない大人という存在。だけど人は先入観をもたず、ありのままの自分をそのまま見てくれるフラットな相手に対して安心する生き物なのである。

何かに夢中になって、それこそ誰かと自分を比較する暇もないほどに集中しているときには、吸いもあまいも他人のネガティブな要素なども無意識のうちに排除しながら、邁進し続ける。
その邪念なきゾーンに入っている人というのは、他人からはある意味鈍感な人のように思われるかもしれない。

だけど、その姿ほど純粋なものはない。人はしばしば「少年のよう」などと形容したりするけれども、私は、少年というよりはむしろ、赤ちゃんに近づいているのではないかと思う。
私の知る「癒し系」の人々は、しばしば赤ちゃんのように、全身から「癒しのオーラ」を放出させているからだ。

そして人はやっぱり、そういう人のそばにいるのが好きだ。

 

だから私は今更だけど、癒し系になりたいと思う。そしてふと、そこは目指しちゃいかんだろう、、ということに気がつく。

私のすべきことは、「わきめも振らずに目標に向かって邁進すること」であり、癒し系はその過程で偶然与えられるラッキーな産物でしかないからだ。手段と目標を混同してはいけないんだった。

あぶないあぶない。